昭和五十七年七月六日 朝の御理解
御理解 第五十七節
「金の杖をつけば曲がる竹や木は折れる神を杖につけば楽ぢゃ」
金があっても物が豊富であっても本当に頼りになる人がおっても、 神を杖につけば楽ぢゃ、と仰せられるような楽は、いつでもどんな場合でも、心が平常でおれる、喜びでおれれるとうおかげは、ただ金があるから物があるから、頼りになる人がおるから位では、本当の神を杖についたとは云えないと思うですね。
本当に、神を杖につけば楽ぢゃ、と仰せられるその信心とは、ね、金も物も又は人も、これは自分自身でもそうです、ね、自分の、ま健康なら健康も神様から頂いておっての健康、いうならば、も、命あってのものだね、である。金も物も人も、そういう頂き方ができる時、初めて、神を杖につけば楽ぢゃ、と云う、ね、いよいよの時には、神様にお願いをすれば、お取り次ぎを頂けば、信心させて頂いとれば有り難い事だ。成る程、そうなんですけれれども、ここで教えておられる楽ぢゃというこれは、ただ信心が熱心だから、日参が出けておるから位で頂けれる信心ではないと思う、ね。だから、云うならば、金もなからなければいけない、物もなからなければいけない、ね、また、自分一人では生きられません、ね。第一、自分自身が健康でもなからなければなりません。
なら、それだけの物が足ろうておるから楽かと云うと、楽ではないでしょうが。なら、それだけたろうとりゃね、本当に楽かち云うと楽でないです。金があっても、物があっても、健康であっても、家庭が例えば円満であっても。それで楽という事ぢゃない。それで不安はない心配はないと云う事はない、ね。
私、今日の、ここのみ教えというのは、神を杖につけばらくぢゃという事は、ね、ただ熱心に信心が出来ております、という位なことでは頂けないと思うですね。商売が忙しゅうて、ま、お参りができないという人、信心もやっぱり物もいりゃ金もいる、と云うようなま、考え方。それでもやっぱ困った時には、神様、兎に角、神様を困った時に頼むとか、お尋ねをするというような意味での信心、神様では、楽だというおかげは受けられん、ね。この御理解でいつも頂きますように、ね、金がどんなにあっても使ってしまえば、もうおしまい、ね。自分の心がどんなに、ま、金の杖をつけばといやあ、ま、お金と頂いて、木や竹は折れると云う。どんなに心丈夫な人、心が強い人でも、いよいよ難儀な人が続きますと、私も自信を失ったというふうに云うでしょ、ね。ですから、本当に頼りになるのは神様だけだと。確かにそうです。けれども、その、頼りになるのは神様だけですけれども、その、神様を本当に杖についておるかどうかと、不安があり心配があり、ね、するならば、神様を杖についておるとは云えないです。そりゃ理屈の上では成る程、ね、自分の気だけ心だけでは、ね、やはり、心の強い人やら弱い人がありますがね、心の強い人、また、金やら物やらに恵まれておる人、だから、ある間はそれが頼りにもなるわけですけれども、いよいよ、なら、使ってしまえば無くなるのであり、いよいよ、なら難儀が続くと、どんなに気の強い人も、いうならば、何と云うでしょうかね、信念の強い人と云いますかね。信念に満ちあふれた生き方をする人。
そりゃもう、どんな難儀があってもそれを克服していけるだけの力、 ところが、いよいよいかんと、結局、自分の信念というものが、たあいなものであった、という事に気がつく時に、云うならば信念、いわゆる自信を失ってしまうのです、ね。どうでも、私は、神を杖につけば楽ぢゃ、と。神を杖につけば楽ぢゃ、ということは、もういつの場合、どんな場合であっても、いうならば、信心生活、ね。生活あっての信心ではなくて、ね、信心あっての生活、という信心になる事です。
そこには、ね、忙しいとか、ね、いろんな自分の自由を全然つけなくてすむんです。いつも神様が中心なんですから、ね。いかにも、神様を中心にしておるようであっても、結局、自分が中心であるから、ね、結局、神様の方を、信心の方を大事にしなければ、もう、私、思うです。
もう、一にも神様、二にも神様、三にも神様という頂き方になる事。そして、いつも、どんな場合でも中心にした生き方、生活が出来るという事、ね。 例えば、なら、福岡あたりから毎日日参をしてくる、とね、例えば、川上さんなんか、もう、十年も、しかも、あの自動車、バスを使って続けられておる。そりゃ、も、大変な事なんだけれども、信心が中心であったらそれができるんです。それが仕事以上の仕事、ね、それが、やはり、神様を中心にしておるようだけれども、自分が中心だとそんなわけにはいかんのです。生活がかかっておるから、という事になるです、ね。だから、も、生活の中に神様が入ってしまいなさる。いうならば、信心の中に生活が入ってしまう、という行き方、ね。そういう行き方が出来て、初めて神を杖につく、という事になるのだと思うです。神を杖につけば楽ぢゃというのは、そういう信心からでしか本当の意味においての楽ぢゃというおかげは、生まれてまいりません。
今は、物があるから金があるから、今は、ま、健康だから家庭が円満だから、おかげを頂いて有り難い事だ。成る程、それで充分のようですけれども、それで充分という事ではない。金光様の御信心はどこまでも、いうならば神様が中心、しかも一にも二にも三にも神様である。
そこには忙しいとか、自分勝手というものは出て来ない、ね。
例えば、福岡なら福岡に勤めてる人がね、もう、勤めであるとすれば、もう、毎日やっぱいかなければならんでしょうが。それが勤めであれば、ね。例えば、善導寺の久保山さんなんかは、梅屋の経理をしておりますから、やっぱり善導寺から毎日、なら、福岡まで通っております、ね。そりゃ、いうならば仕事だからです、ね。だからそれを、ね、私共が信心を芯にしたら、それが出来るのです、神様中心にしたら、ね。
一にも神様、二にも神様、三にも神様、ね。いうならば神様が中心、いつも神様が中心、ね。仕事が中心であれば、まいにち、福岡通いもできるように、ね、なら、本当に神様が中心になったら、毎日、福岡から合楽に通ってくる事もできるという事。それだけの事ではない、一事が万事にそういう行き方をさしてもらうところから、金も物も健康も生きてくるのです。
仕事、いうなら、神様が主でなくて従である、ね。それから、お願いをする、忙しいから。おかげは受けますけども、それが、例えば神を杖についたという事にはならん。
神を杖につけば楽、というようなおかげを頂く為には、何処までも神様が中心、芯でなからんならん、ね。
もう本当に、自分は神様中心に生きておるようであっても、もし楽でないならば、ね、ま、どうにか神様を中心ぢゃない、やはり自分、自分一家、自分の仕事が中心であるという事になります、ね。そういう信心を目指したら楽ですね、いよいよ、ね。これは御本部のある偉い先生が合楽で説かれるこの御理解を聞いて、ね、こんな確かな表現、こんな確かな信心はない、ね。
神を杖につけば楽とおっしゃるが、お互いが神様を頼る、すがりきっとると云うようであっても、もし、あなたが楽でないならば、本当は神を杖についてはいないのだ。合楽で説かれる楽とは、ね、ね、本当の、この、神を杖につけば楽ぢゃ、というところまで信心を進め、高めていかなければならないといったようなことを、もう、ここのある先生が聞いて来て、合楽のその、おかげの泉かなんか読まれて、そう云われたという。だから一つの喝破ですね。悟りです。してみると、お互いの信心は、神様中心のようであって中心でない。その証拠には、楽でない、ね。どうでも一つ、ね、神を杖につけば楽ぢゃ、と云う、いよいよ神様中心、いうならば、神様本意の信心を頂きたいですね。
「 どうぞ 」